ロシア文学 戦争と平和 その十九 | ScrapBook

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その十九 ②136〜156

今朝の出勤前、第一部第三篇9と10とを読んだ。

 

自らの出世を画策したボリスは、自分を評価してくれるアンドレイを介して、魅力的な地位が自分に回ってくるよう、できれば副官になれるよう行動を起こす。「自分の頭以外持っていないおれは、自分の出世の道をはかって、チャンスはのがさず、利用しなければならないんだ」という確固たる意思を秘めていた。純真で直情的なニコライに比べると、計算高いボリスは、いささかつまらぬ人間に思えてしまうものだ。もっとも、ボリスが語るように、お坊ちゃんであるニコライの理想主義的傾向は、実家の財産という後ろ盾がなければありえないものかもしれない。

 

総司令官であるクトゥーゾフがいる家でボリスが目にした光景は、年をとったロシア人の将軍が、地位が低い大尉のアンドレイに向かって「ほとんど爪先だちになるほど、直立不動の姿勢をし、真っ赤な顔を兵隊のように卑屈な表情にして②138」「何かを報告している」姿であった。軍隊内にある規律や上下関係のほかに、軍隊の中には「本質的な上下関係」があることを見抜いたボリスは、自分も肩書きを超えた存在になれるよう、そのような立場に身を置けるよう決心するのだった。

 

アンドレイは、ボリスを将来有望な青年と見なしており(なぜ、ボリスを有望な人物であると評価しているかは説明されていないが)、彼がよい地位につけるよう尽力することを惜しまない。彼はボリスを連れて、皇帝とその側近たちがいるオルミュツ宮殿に行き、作戦会議から戻ったばかりのドルコルーコフ公爵に引き合わせるのだった。公爵の口から、すぐにも攻撃を開始することを、つまり、クトゥーゾフ達「老人」の考えとは反対の結論が出されたことを、アンドレイは知ることになった。公爵は作戦会議のことや、これから始まる攻撃のことで頭がいっぱいの様子であり、アンドレイからボリスを紹介したいという要件が切り出されるまで、のべつ隈なく喋り続けるのであった。

 

とりあえず、ボリスの紹介を受けたドルゴルーコフ公爵は、ボリスのためにできることはすると安請け合いする適当なあいさつもそこそこにアレクサンドル皇帝の元に向かうため彼らを後にする。かわりに皇帝がいる部屋から出てきた男は、「まっすぐアンドレイの方に歩いて来ながら、彼が自分に頭を下げるか、道を譲るのを待っている様子で、じっと冷たい目でアンドレイを見つめた②147」。対するアンドレイは頭も下げる道も譲らない。その男は、アンドレイに憎しみを表しながら、しかたなく廊下の端を通り抜けていった。「あれは最高に優秀だけど、僕にはいちばん嫌な感じがする連中の一人でね。あれは外務大臣のアダム・チャルトリシスキー公爵ですよ」「あの連中なんだよ、いくつもの民族の運命を決しているのは」とつぶやくアンドレイの脳裏には、窮地にあるはずのロシア軍が、ナポレオンに向かって攻勢に出ることに対する危機があったのではないか。

 

一方、ニコライが所属する軽騎兵連隊は、後方に残されていた。他の部隊が戦果をあげているのに、自分達が蚊帳の外になっていることに対する焦燥感やいらだちがあった。そこに姿を現したのは、彼が心から尊敬し、崇める存在であるアレクサンドル皇帝だった。「皇帝のそばにいることからくる幸せな気持に、彼はまったく呑み尽くされてしまったのだ②152」。彼が皇帝に心酔してしまった姿は、すでに8節の閲兵の場面でも描かれていた。ここに描かれているのは、近代的な国民国家が形成される前夜、一国の君主がひとりの臣民の心の中で、いかに神格化されるかという過程が描かれている。ニコライは、連隊の同僚たちと酒を酌み交わしながら「陛下ご自身が先頭に立っておられる今度は、どうなると思う? おれたちはみんな死ぬんだ、陛下のために喜んで死ぬんだ。そうだろう? みんな」とぶちまける。いうまでもなくそこに集まった連隊全員が、ニコライの言葉に「ウラー」と叫び、彼に賛同するのだった。

 

だが、作者トルストイは、皇帝に心酔するニコライたちの様子を語る一方、戦場で負傷した兵士が数多く倒れている光景を目にしたアレクサンドル皇帝が「本当に恐ろしいものだ、戦争は、本当に恐ろしいものだ!」とつぶやく場面を挿入した。アレクサンドル皇帝自身は戦いに熱狂しているのではない。彼をかつぎあげる軍人たちが、戦争という得体の知れない渦の中が動き始めている。前の説では、アンドレイが、数名の高官が民族の運命を決していると考えていたが、作者であるトルストイは、君主が戦争を望んでいないにもかかわらず、戦争を誰も止めることができない様子をそっと描いている。むしろ、最前線にいる兵士の一人ひとりが自分たちから死に向かって突き進もうとさえしているのだ。そして、この節は次の文章により締め括られる。「アウステルリッツ戦を前にした、あの記憶すべき数日のあいだに」「ロシア軍の十人のうち九人までが、ニコライほど熱烈ではなかったにしても、自分たちの皇帝とロシア軍の栄光に惚れこんでいたのである」と。