ロシア文学 戦争と平和 その二十一 | ScrapBook

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その二十一 ②197〜249

日曜日の昼からは、第一部第三篇15から19までを読んだ。

 

十一月二十日午前八時、連合軍の総司令官クトゥーゾフは、第四ミロラードヴィッチ軍団の先頭に立ってプラーツ村付近まで前進を開始した。クトゥーゾフの傍に控えるアンドレイの頭の中では、「旅団か師団を率いて、そして、そこで軍旗を手に持っておれは前進し、自分の前にあるものをなにもかも、たたきつぶすのだ②198」といった勇ましい妄想が彼の気持ちを昂らせていた。

 

攻勢を行うことに乗り気ではないクトゥーゾフではあったが、動き出した歯車を止めることはもはや彼にはできず、歩兵隊をはじめとした部隊は、命令に従って粛々と前進を続けた。

 

戦場を覆っていた霧が晴れ始めた頃、二キロメートル以上先に布陣しているとばかり想定していたフランス軍が、ロシア軍のわずか五百歩ほどの距離に密集隊形をとり迫ってきていたのだった。フランス軍の急襲に気づかず前進を続ける歩兵部隊。彼らを停止させようと、クトゥーゾフに進言したアンドレイの目の前で、不意をつかれたロシア軍の多くがパニックを起こし、逃げ出し始めた。総司令官が兵隊たちを持ち場に踏みとどまらせようと命じたところで、雪崩れ込んできた敗残兵の波を止めることなどできなかった。絶望するクトゥーゾフは支離滅裂となった部隊を指差しアンドレイに向かって「いったいなんだ、これは?」とささやくのがやっとである。自軍が潰走する様に恥ずかしさと無念とが込み上げてきたアンドレイは、金切り声で叫ぶ。「みんな、前へ!」と。彼は重い軍旗を手に、自分が敵に向かって走り始めれば全大隊が自分の後について走り出すことを信じて疑わなかった。彼はそれほどまでに妄想の人であった。

 

士気を鼓舞された全大隊がアンドレイを追い越し走り出したのだが、フランス軍の正確な射撃の前にひとり、また一人と斃されていく。自分の目の前でロシア兵とフランス兵とが肉弾戦となっている場所に駆けつけようとした次の瞬間、彼の頭に強い衝撃が走ると、そのまま仰向けになって倒されてしまった。

 

ぼんやりとした彼の意識は戦場を遠く離れ、自分の頭上に広がる「はかりしれないほど高くて、灰色の雲が流れている、高い空」に向かう。そして、次のような心境が彼を訪れるのだ。「この高い果てしない空を雲が流れている。どうしておれは今までこの高い空が見えなかったのだろう? そして、おれはなんて幸せなんだろう、やっとこれに気づいて、そうだ! すべて空虚だ、すべていつわりだ、この果てしない空以外は、何も、何もないんだ、この空以外は。いや、それさえもない、何もないんだ、静寂、平安以外は。ありがたいことに!……②215」。死を強く意識した人間だけが垣間見ることができた、人間を超えた自然存在を通して、人間存在の矮小さに気がついた瞬間だった。

 

戦闘が同盟軍の敗戦に終わった後も、負傷し横たわったまま戦場に残された彼は、微かな意識の中で思考を続ける。自分が初めて見た「高い空」、そして、「この苦しみもおれはやっぱり知らなかった②241」ことを悟り、自分が何も知らなかったことをいまさらながらに知るのだった。

 

アンドレイ達負傷兵が倒れたままの戦場に姿を現したのは、フランス皇帝ナポレオンであった。かつては自分が英雄であると、ある種の崇拝さえ感じていた相手が目の前にいるにもかかわらず「自分の心と、この、雲の走っている、高い、無限の空のあいだで今生じていることにくらべると、この時彼には、ナポレオンがあまりにもちっぽけな、取るに足りない人間に思え②243」るのだ。彼は、あらゆるものの小ささを悟る一方、「何か不可解だが、このうえもなく重要な、あるものの偉大さ以外②248」にこの世界において確実なものはないと直感する。だが、偉大な存在とは「神」であると信じきれない彼は、妹のマリアのように「単純明快」になれるなら、自分も幸福で安心できるのにとうらやみながら、煩悶するしかない。

 

一方、ニコライは、バグラチオン将軍の命を受け、クトゥーゾフを探すため戦場を駆け回る。途中、フランス軍に突撃攻撃を仕掛けようとする近衛騎兵隊と衝突しそうになったり、初めて砲火の洗礼を浴びたボリスやベルグに遭遇したりしながら、総司令官がいるはずのプラーツ山上にフランス軍の砲兵部隊が陣取っている姿をみてもいまだに、連合軍が潰走しているのだという考えが浮かばないのであった。いや、彼には敗けるということが信じられないのであった。

 

皇帝は負傷して運ばれたといった話を耳にしながら馬を進め続けた彼は、ふいにアレクサンドル皇帝が戦場に佇んでいる姿を目にしたが、声をかけることさえできない。彼は自問する。「いったい何を陛下にたずねるのだ? もう今は午後の四時近くで、しかも、戦闘は敗けてしまったのに。いや、絶対におれは陛下のそばに行くべきではない、陛下の物思いを乱すべきではない②233」。彼は皇帝に同情する涙を抑えながら、敗残兵の流れとともに、絶望して進むのだった。

 

アウステルリッツの戦いは、午後五時には戦闘はすべての場所で連合軍の敗北に終わった。