ScrapBook -2ページ目

ScrapBook

読んだ本についての感想文と日々の雑感、時々音楽のお話を

仕事を休んだが、ズル休みってわけではない。所用があり、仕方なく仕事を休み午前七時から車に乗って高速を走る。町から百数十キロほど離れた場所で、ほとんど丸一日用事をしていた。そんなわけで、今日は「戦争と平和」について語ることはお休みすることにしたのである(何かと理屈をつけて休みにしている最近だ)。

 

週末に、「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」という映画を、Amazonプライムで観た。ほとんど映画を観ない僕なんだけど、せっかくAmazonプライムの料金を払っているのだからという、せこい考えから映画を探している途中に偶然見つけた作品だ。

 

わりあい若い頃から、サリンジャーを読んできた。大学生の頃、「ライ麦畑でつかまえて」を読んだし、文庫本化されている作品はおおよそ目を通しているはずだ。だが、作者サリンジャーの伝記についてはほとんど興味らしい興味を覚えたことがなかった。なんでも、自分の作品には、解説を載せないようにと注文をつけるだけでなく、ほとんどメディアにも現れない、謎の存在として二〇一〇年に亡くなるまで、ひとり山奥で隠遁生活をしていたはずだ。

 

映画「ライ麦畑の反逆児」では、大学で文学創作を学び始めた頃から、志願して第二次世界大戦に向かい、帰国して売れっ子作家として成功を収めるも、静かな生活を求めてニューハンプシャーの山奥に閉じこもってしまうまでが取り上げられていた。とりわけ、戦場ではホールデン・コールフィールドを主人公とする作品を構想することが彼を支えたと語られ、激しい戦闘により傷つき命を失う戦場での日々が、彼の神経を蝕んでいく様子まで描かれていた。いまでいうPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患ったのだろうか。

 

その映画を観終わった後、ふと、「バナナフィッシュ日和」のシーモア・グラスのことを考えずにいられなかった。

「どうなるって、何が?」

「バナナフィッシュ」

「ああ、バナナを食べすぎてバナナの穴から出られなくなったあとかい?」

「そう」シビルが言った。

「うん、それが言いづらいんだけどね、シビル、死んじゃうのさ」

「どうして?」とシビルは訊ねた。

「うん、バナナ熱にかかちゃうんだ。恐ろしい病気なんだよ」

 

バナナフィッシュの死の原因については、能弁に語るシーモア・グラスだったが。

 

「ツインベッドの一方に横になって眠っている女の子の方を、若い男はちらっと見た。それから荷物を置いたところに行って、鞄のひとつを開けて、パンツやアンダーシャツの山の下からオートギース七・六五口径オートマチックを取り出した。弾倉を外して、眺め、もう一度挿入した。撃鉄を起こした。それから、空いている方のベッドに行って腰を下ろし、女の子を見て、ピストルの狙いを定め、自分の右こめかみを撃ち抜いた。」

 

「ナイン・ストーリーズ」の冒頭に置かれた「バナナフィッシュ日和」では、グラース家の長男のシーモアがいきなり理由も原因もわからず(もっとも、自殺というものには明確な理由や原因といったものはないのかもしれないが)、ピストル自殺を遂げてしまうのだ。さすがに、この作品集を初めて読んだ時にはいささか面食らったものだ。いきなりピストル自殺から始まる短編集。

 

グラース家を描いた作品群は、グラース・サーガと呼ばれているそうだ。彼ら兄弟たちは、物知りの子供たちが登場するラジオ番組に全員が幼い頃に出演する、秀才兄弟であり、長兄シーモアの人格や思想、そして彼の死の影響を何らかの形で受けていることになっている。本作「バナナフィッシュ日和」以外の作品を読んでも、シーモアの死の真相はわからずじまいであった。

 

サリンジャーが帰還兵であったように、シーモアも帰還兵である(「陸軍があの人を退院させたのはね、完璧な犯罪ですって」)。

 

戦争によってストレス障害を負うこと(戦争神経症)は、ベトナム戦争や湾岸戦争、イラク戦争を経た現代では周知の事実であるが、「バナナフィッシュ日和」が発表された、第二次世界大戦後まもない頃に、どれくらいの人がその事実を理解していただろうか? なにより、戦勝の熱が冷めやらぬ当時のアメリカ社会に、サリンジャーが投じた作品の主題は、現代にも続いているのだ。

 

引用は、「ナイン・ストーリーズ J.D.サリンジャー 柴田元幸訳 ビレッジブックス刊」。

その十六 ②70〜86

先週の木曜日の出勤前に第一部第三篇3を、翌日の金曜日の朝に4をそれぞれ読んだ。

 

出勤前に読んだパートの読後感を、就寝前に毎日記す予定であった。が、金曜日から日曜日まで飲んだくれてしまった。鬱々して仕方なかった。金曜日の夜と土曜日の夕方は、先日読んだチャンドラーの影響もあったか、ずっとスコッチ・アンド・ソ―ダを飲んでいた。飲む以外のことは何もしたくない、そんな気分だった。今日一日の仕事を通して、どうにか通常運転に戻りつつある。

 

前にも記したように、「戦争と平和」を読むのはこれで三度目である。初めて読んだのは、大学を卒業して就職した会社を二年で退職した後のこと。仕事はないし、おまけにすることもないし、暇にあかせて読んだわけだ。再読したのは、昨年の年末年始の休みの間のこと。それぞれ米川正夫訳の岩波文庫である。先週の木曜日と金曜日に読んだ場面の展開は、いまだ自分の記憶にあった。ここに登場するマリアは、とても不器量な存在として描かれているのであるが、この長編小説の後段で扱われる彼女のことを思うと、いささか不当なまでに「不器量」「不器量」と表現されていないか。年齢を重ねるごとに彼女は美しくなるといった描かれ方でもなかったかと思う。物語の構成上、マリアは不器量でなければならず、物語の進展にあわせて周囲の男性を惹きつけていく存在に成長することになる。

 

かつて権力の中枢にいたが、いまでは田舎に引っ込んでしまった時代遅れで頑固者の年寄り公爵とその不器量な娘マリアが住む館。二人の身の回りの世話をする気量のよい若きフランス娘ブリエンヌは、いつか自分をこんな退屈な場所からさらってくれる男性を夢見ている。そんな館に現れるのは、金を目当てに娘との縁談を目論む軽薄な父親ワシーリー公爵と、その息子の放蕩児アナトール。どのような物語が始まるかは、火を見るよりも明らかである。

 

老公爵は辛辣ではあるが、目の前の人物の性向を見抜く目を備えた人物であり、上辺を飾って済ませている人たちを激しい言葉によって揺さぶり続け、その化けの皮を剥ぐ。

 

普段の髪型や服装ではない娘を見つけた老公爵は、きれいだと褒める言葉を投げかけながら、リーザに向かって「この子が自分をふた目と見られん姿にすることはない。ただでさえ不器量なんだ」と吐き捨てる。また、軍務に服しながら自分がどこの部隊に配置されているかわからないアナトールに向かっては、「みごとなご奉仕ぶりだ、みごとなもんだ。何に配属されているんだっけ、か! ハ、ハ、ハ!」。

 

マリアを「おっそろしく不器量だ」と品定めをしたアナトールの関心は、ブリエンヌに移ってしまう。一方、ブリエンヌは、アナトールを、自分がかねてから思い描いていた「ロシアの公爵」に重ね、彼が自分をこの退屈な館から連れ出してくれると夢見心地であり、彼の気に入られることだけを考え行動している。

 

マリアをみつめるブリエンヌの目が「おびえたような喜びと期待が表れていた②85」のは、彼女の足がアナトールの足と触れ合っていたからであり、マリアのこれから先の幸せを願ってのものではなかった。そのことをマリアは知らない。彼女は思う。「あたしは今本当に幸せだし、幸せになれるわ、こんなお友だちとこんな夫がいれば! 本当に夫なのかしら?②85」。悲劇と喜劇とは、おなじ根っこから生え出した植物のようである。

高校生の頃からPrinceが好きだ。

かれこれ、40年近く聴いていることになる。

Baltimoreと題された曲は、その穏やかな曲調とは裏腹に、

ひとり一人のリスナーに突きつけるPrinceの言葉は鋭い。

 

Baltimore

Nobody got in nobody's way
So I guess you could say it was a good day
At least a little better than the day in Baltimore
Does anybody hear us pray
For Michael Brown or Freddie Gray?
Peace is more than the absence of war

Absence of war
Are we gonna see another bloody day?
We're tired of the crying and people dying
Let's take all the guns away

Absence of war, you and me
Maybe we can finally say
Enough is enough, it's time for love
It's time to hear
It's time to hear the guitar play, 
Guitar play

Baltimore
Ever more

If there ain't no justice, then there ain't no peace
If there ain't no justice, then there ain't no peace
If there ain't no justice, then there ain't no peace
If there ain't no justice, then there ain't no peace

Baltimore
Baltimore
Peace is, peace is more than the absence of war

Are we gonna see another bloody day? (No, no no no)
We're tired of the crying and people dying (oh oh)
Let's take all the guns away

There ain't no peace
If there ain't no justice, then there ain't no peace
If there ain't no justice, then there ain't no peace (Baltimore, oh)

Oh oh oh, oh oh oh
Oh oh oh, oh oh oh
Oh oh oh, oh oh oh (Absence of war)
Oh oh oh, oh oh oh
Oh oh oh, oh oh oh
Oh oh oh
We have to interrupt the regular scheduled programming
To bring you up to date on a developing situation in Los Angeles

 

 

 

 

その十五 ②34〜69

昨朝、出勤前に第一部第三篇2を、今朝は続きの3を読んだ。

 

ここ最近、仕事と私用とで、凹むことが連続して発生した。老いや病、死ということに関係している仕事柄、気分がすぐれないことは、自分の場合、珍しいことではない。普段は、読書か音楽に耳を傾けることで心を整え、日々の日課をこなしているわけである。

 

だが、火曜日からトラブルの対処に追われたり、考え込んだりしてしまい、読書や音楽鑑賞で日常を取り戻す気持ちが起こらず、先日から書き始めた「戦争と平和」の読後感想も書く気持ちが湧かないどころか、出勤前の読書にもどこか身が入らない(就寝前に「カミュの手帖」を数ページ目を通す程度でもすっかり疲れてしまった)。しかも、昨朝、今朝と読んだ「戦争と平和」の内容は、平和な日常が激変してしまう小さな事件を扱ったもの。2節ではピエールがエレンとの結婚に巻き込まれていく様が、次節ではアンドレイの妹マリアの単調な日常が乱される様子がそれぞれ描かれているのだから。

 

ワシーリー公爵の本能的な策略により、エレンに近づけられていくピエール。エレンが何者なのかもわからず、ワシーリー公爵をはじめとする周囲の人たちの、エレンと結婚しなければならないという重圧を感じるピエールは、なぜ自分がこのような状況に置かれてしまったか理解も納得もできないでいた。自分が苦しい状況にある原因は、自分の決断力の欠如であると考えるようになっていた。エレンに対する「欲情」が彼の「決断力を麻痺させていた」。こんな状態の中で、ひと月半も堂々巡りをしていたのだから、ピエールという人物はたいそう優柔不断か、お人好しか、はたまた、エレンがあまりに妖艶であったか。

 

二人の関係が進展しないことに業を煮やしたワシーリー公爵は、エレンの名の日の祝いの席で、ピエールがエレンに求婚する場を仕立て上げる。「いったどうしてこんなことになったんだ? こんなに早く! もう今となったらわかっている、彼女だけのためじゃない、自分だけのためじゃない、みんなのために、どうしても、そうならなくちゃならないんだ②43」。「どうしても踏み越えなくちゃいかん。でも、できない、おれはできない②48」と煩悶するピエールを尻目に、公爵は、さもピエールがエレンに求婚したかのように見せかけてふたりを強引に結びつけてしまったのだった。

 

この後、エレンは、「素早く、荒っぽく頭を動かして、彼の唇をとらえ、それを自分の唇に重ねた。その顔は変わってしまって、感じの悪い、放心したような表情」を浮かべていた。エレンの正体が暴かれた描写であるだけでなく、彼らの結婚生活が瓦解するだろうことがすでにこの時点から暗示されている。

 

3節では、アンドレイの妹マリアが主人公である。ワシーリー公爵はここでも策略を巡らせる。経済的な目的から(エレンをピエールに近づけたのと同じ理由からだ)、次男であるアナトールをマリアに近づけるため、はるばるルイスイエ・ゴールイまで乗り込んでくる。

 

アナトールについては、すでに①において、その快楽児ぶりの片鱗が描かれていた。「自分の人生全体を彼は、楽しみの連続と見ていた。そしてだれかがなぜか義務として、彼のためにその楽しみをお膳立てしてくれるはずだった②59」と考えている。今回の、父に命じられた旅自体を「意地悪な老人と、裕福でおそろしく不器量な跡取り娘②59」にあうことを楽しみにしていたのだから。

 

堅物と思われていたマリアの結婚話にうかれているのは、当事者ではなく、単調で平凡な日常に飽き飽きしているリーザとブリエンヌであった。「マリアを美しくしようと、本当に心から気を遣っ」ていた彼女たちは、マリアの服装、メイク、髪型をすべてにあれやこれやと口を出すのだったが、「どんなにこの顔の枠や飾りを変えても、顔そのものはやはりみじめで、醜いままなのだ、ということを二人は忘れていた②64」(それにしても、マリアの容姿に対するトルストイの言葉は厳しい!)。

 

勿論、不器量であると自身認めていたマリアであっても、口にこそ出さないが、理想とする男性像を胸に秘めていた。ふとその理想の「男」が「夫」が胸の中にふつふつと浮かんでくる。いつか自分も、理想とする男の妻となり「自分の赤ん坊」を授かるのだという夢である。

 

その甘い夢に揺蕩うのも束の間、悩ましいまでの懐疑の念が沸き起こるのだった。果たして自分には男性に対する現世の愛のよろこびなどあるのだろうか?

「何ひとつ自分のために望んではならぬ。求めるな、心を乱すな、羨むな。人間の未来とおまえの運命はおまえにはわからぬはずだ。だが、どんなことにも覚悟ができているように生きよ。もし結婚の義務のなかでおまえを試すことを神がよしとすれば、神の心を果たす覚悟ができているようにするがよい②68」。

 

快楽児のアナトールと、現世の夢と神への愛との葛藤にあるマリア。最初から、うまくいかぬ二人が出会うことになる。

その十四 ②17〜34

今朝、出勤前に第一部第三篇1を読んだ。

 

第三篇の舞台は、平和なモスクワに戻る。べズーホフ伯爵の死去にともない、庶子であるピエールが伯爵の爵位とその莫大な遺産を相続することになった。当時のロシア人に限らず、どんな時代でも力や富を持った人間の周りにはさまざまな取り巻きが集まるものだ。それはピエールも例外ではなかった。かつて彼を歯牙にも掛けないでいた人たちの追従が、次第に彼の自分に対する評価さえも変えてしまう。「彼は自分が人並みすぐれて善良で、人並みすぐれて頭がいいと、本気で信じはじめた②19」。たぶんに仕方のないこととはいえ、ピエールに悪意がないだけ、彼が哀れに見えてくる。

 

作品に登場したばかりの彼は、衆人から愚鈍と見なされたり、時に遊蕩児アナトールと乱暴を働いたりする姿が描かれていたものだが、一方でアンドレイを尊敬するといった、高潔な面を持ち合わせた青年でもあった。

 

第一篇の冒頭に描かれたアンナ・シェーレルの夜会での彼は、その場に合った(勿論、社交界の場に相応しい振る舞いうことだが)言動を理解できない。「自分の頭のなかで作り上げているあいだは、利口そうに思えたことばが、大きな声で口に出すとたちまち、馬鹿げたものになってしまい、それとは逆に、このうえもなく間の抜けたイポリットのことばが利口そうで、感じのいいものになってしまう②25」のだった。場違いな存在である上に、彼はこれから自分が何をしたいかも決めかねており、アンドレイをはじめ周りの人をやきもきさせていた(もっとも、莫大な富を手にした今もなお、とりたてて自分が進むべき方向さえ見つけられないでいたのだが)。いうなれば、彼は自分自身を持て余しているのである。

 

ワシーリー公爵がべズーホフ伯爵の臨終の席で遺産のおこぼれに、いや、あわよくばその多くにあずかろうとした企ては、伯爵が生前に残した遺言により水泡に帰したわけだが、次なる企みは、自分の娘をピエールと結婚させることだった。もっとも、作者は、ワリーシー公爵を「利益を得るために、人に悪いことをしようなどと考えたことはなかった②17」が、「彼の頭にはいつも、状況と人との付き合いに応じて、いろいろな計画や思惑が作り上げら②17」れる人物であると断っているのだが。彼の言動はほとんど「本能」から発したものであるということだ。

 

ワリーシー公爵の娘エレンは、モスクワの社交界を代表する美女として、前篇から登場していたが、どのような人物であるかはわからぬままであった。公爵の思惑もあり、徐々に接近させられていくピエールとエレン。

「しかし、あの女は頭が悪い」「こんなもの愛情じゃない。それどころか、あの女がおれの心にかき立てた気持の中には、なにかいやらしいもの、なにかあってはならないものがある②33」とピエールは直感的に感じている。それというのも、彼女は兄のアナトールと互いに惚れ合っていると彼は耳にしていたからだ。その一方で、彼はエレンの美しさ(それは官能的な魅力といったものだろうが)に、美しい女を妻にするという魅力的な力に抗することができないでいる。

その十三 ①460〜503

今朝、出勤前の時間に第一部第二篇20と21とを読んだ。岩波文庫版の第一巻目を読み終える。

 

数で劣るロシア軍が劣勢となるのは仕方のないことであった。とりわけ、フランス軍に不意をつかれた歩兵連隊は、てんでばらばらな群れとなって潰走を始めた。戦場で混乱した兵隊の群れが指揮官の声を聞くか、それとも逃げてしまうかが勝敗を決する瞬間をトルストイは、「精神的動揺の瞬間」であるという。

 

部隊の異常に気がついた連隊長は、命令を聞かず崩壊する軍隊を押しとどめようと、隊列を離れて逃げていく兵隊たちに向かって前線に止まるよう叫び声を上げる。もっとも、彼が弾丸の飛び交う戦場での危険や自分の身を守る気持ちさえ忘れてしまうのは「将校の自分が責任を問われないようにする」ということのためなのだ。

 

戦場において自分に弾丸が当たることなど考えもしないトゥシンが率いる砲兵隊は、戦闘が始まってからずっとフランス軍に向けてエネルギッシュに砲撃を続けていた。四門の大砲の勢いは凄まじく、ロシア軍の主力が集中しているとフランス軍が取り違えるほどだった。だが、多勢に無勢。フランス軍が前線に大砲の砲弾を向け始めると馬や将兵を失い、大砲が一門破壊された。バグラチオン公爵から退却命令が度々だされるが、敵の砲撃がはげしく、伝令役がトゥシンの部隊まで近づけない。将軍の命を受けたアンドレイがやっとトゥシンに撤退を命令し、アンドレイ自身も大砲の撤去の手助けをしたことで、砲兵隊は前線を離脱することができたのだった。

 

日が暮れた戦場を後にロシア軍は撤退を始めた。その様は「闇のなかで、まるで目に見えない陰気な川が、ひたすら同じ方向に向かって、ささやき声や、話し声や、ひづめの音や、車輪の音をざわめかせながら流れていくようだった。全体のざわめきのなかで、ほかのあらゆる音を突き破って、なによりもはっきりと、夜の闇のなかで負傷兵の呻きや声が聞こえていた。その呻きが、部隊を包んでいるこの闇全体を、満たしているように思えた。負傷兵の呻きとこの夜の闇——それは同じものだった」。その流れの中には、片方の腕を別の手で押さえたニコライの姿もあった。

 

司令官をはじめとした将校たちは、バグラチオン公爵に戦況を報告するために、一軒の百姓家に集まっていた。「フランス軍を撃退した」と公爵に報告した連隊長は、「そうしたいと心から思っていたし、それをやる余裕がなかったのを、心から残念に思っていたので、こういうことが全部本当にあったような気がした」から、事実とは異なった報告となったのだ。戦闘の場所から遠く離れたところにいた将校が証言する。フランス軍の「方陣を二つ踏みつぶしました、閣下」と。そこに集った多くの将兵にはその証言が根拠のない嘘だとわかっていたが、「わが軍の名誉と今日の一日をたたえようとする」嘘であるとわかっていたので、全員が「まじめな表情」でそれを聞いていたのだった。

 

二門の大砲を戦場に放棄したとの理由で責任を問われるトゥシン。彼を庇おうとするアンドレイの心のうちは「悲しく、辛かった。これらはすべてあまりにも変なことで、彼が期待していたものからは、あまりにもかけ離れていた」から。虚飾に満ちた社交界を嫌悪した彼は、力と真実があれば英雄になれる世界を求めて戦争に志願したのではなかったか。「足枷をはめられた囚人」になりたくないと思い、戦いの場に逃れてきたはずなのに、戦場の裏側で繰り広げられているのは、社交界と変わらぬ虚飾以外のなにものでもないのだから。

 

深く傷を負ったニコライもまた、荒れ果てた戦場の闇の中にあった。そして、彼も心の中で叫ぶ。「いったいなんのために、おれはこんなところに来てしまったんだ!」と。

その十二 ①421〜460

出勤前の時間に第一部第二篇18と19とを読んだ。18節では、戦場でのバグラチオン公爵とアンドレイを、次節には最前線を駆けるニコライが登場する。

 

数では劣るロシア軍であったが、フランス軍の猛攻を諸所で防いでいた。ロシア軍とフランス軍とが入り乱れて戦う様は、戦いが始まる前にアンドレイが頭の中で想像していた戦争のイメージとは似ても似つかぬものであった。「いったい、これはなんだ?」「これは散兵線のわけはない、兵隊がかたまってるんだから! 攻撃のわけはない、うごいてないんだから。方陣のわけがない、そんなふうに並んでないのだから」といった具合である。

 

戦場の様子を描写し解釈するのが、アンドレイであるのか作者トルストイであるのか、いささか混在している感がある。たとえば、バグラチオン公爵の元に駆けつけた連隊長は、相手を撃退したが、自分の部隊の半数以上の人員を失ったと報告する。それに続いて、「しかし、彼(連隊長)は自分に委ねられた部隊に、何がこの半時間に起こったのか、実は自分でもよくわからず、攻撃が撃退されたのか、それとも自分の連隊が攻撃を受けて粉砕されたのか、確実には言うことができなかった。戦闘の発端で彼にわかったのは、連隊全体めがけて砲弾と榴弾が飛び、人を殺しはじめたこと、そして、やがてだれかが『騎兵だ!』と叫んで、味方が発砲しはじめたことだけだった」とある。これでは、戦場で一旦戦端が開かれてしまうと、総司令官であるとか、事前の綿密な作戦とか精緻な用兵といったものなど重要ではないというに等しい。

 

前節でもアンドレイはバグラチオン公爵が何も命令していないにも関わらず、「なにもかも自分の命令によってではないが、自分の意図に沿って」軍隊が動いている様を目撃していたではないか。

 

フランス兵の姿がはっきりと見える最前線で、バグラチオン公爵は、しっかりしたよく聞こえる声で「神の御加護あらんことを!」と言い、でこぼこの畑を前に進み出す。その姿を見たアンドレイは、「なにか抵抗できない力が自分を引っ張るのを感じ、大きな幸せを味わっていた」のだった。さらにバグラチオンが「ウラー!」叫ぶと、長く尾を引く叫びとなって軍の戦列に広がっていく。「ウラァ・ア・ア・アー!」と。

 

だが、一方で、最前線で嬉々として自分に課された責務を果たしているのはバグラチオン公爵だけではない。「丸顔の、均斉のとれた「中隊長」は、最前線にいるんだという得意の表情を浮かべて、軽快に進んでいくではないか。

 

バグラチオンは果たして英雄なのだろうか。彼がこの戦いに勝利すれば、歴史は司令官である彼を英雄として記録するだろう。彼はロシア軍を勝利に導いたのだから。

 

なるほど、司令官たる人物が、敵弾の飛び交う中を悠然と歩いている姿は、感動的であり、いうまでもなく味方の士気は高揚する。

 

だが、トルストイが描く戦場では、傑出した一人の人間の意図など、砲弾や榴弾の爆発や爆音、発射されたライフル銃の銃弾、振り下ろされたサーベルの一太刀といった剥き出しになった暴力の前では、無に等しい。トルストイは歴史を記しているのではなく、戦争を描いている。

 

愛馬グラーチクにまたがり戦場を疾駆するニコライは、観念の戦争の向こう側にある、剥き出しの暴力を前にして立ち止まる。「ありえない、あいつらがおれを殺そうとしてるなんて」。

その十一 ①421〜460

出勤前の時間に第一部第二篇13〜17を読んだ。

 

重要な情報を持って総司令部に戻るアンドレイが遭遇したのはフランス軍ではなく、幸いなことに退却途中のロシア軍であった。ただし、規律が取れておらず乱雑にまじりあった部隊は、混乱状態の体であった。この様子に直面した彼は、別れたばかりの外交官ビリービンが「これが愛すべき正教の軍勢だ」という言葉を思い起こすのだった。

 

やっとの思いで総司令部に合流できたアンドレイであったが、司令部においても情報が混乱しており、ネスヴィツキーら副官は、フランスと講和をするのか、または降伏するのかと彼に問いかける有様である。

 

ウィーンから進撃を続けるフランス軍がロシア軍を包囲殲滅できる状況にあることを、クトゥーゾフは十一月一日に斥候を通じて知っていた。彼は苦肉の策として、ロシアからの部隊と合流するためにクレムスからオルミュツへ退却することを選択する。そして、フランス軍の進軍を少しでも遅らせるため、バグラチオン将軍の四千名の兵力を割き、ウィーン—ツナイム街道に向かわせた。バグラチオンを見送ったクトゥーゾフに、「もしあの男の部隊から、あす十分の一戻って来れば、わしは神に感謝する」と言わせた作戦である。アンドレイは、総司令官から自分に付き従うよう命じられるが、彼が窮地に向かうバグラチオンと行動を共にすることを願うのも、彼の中でふつふつと湧き立つ「英雄」的な行為に自分自身を投げ打つ覚悟があるからだ。

 

ウオースリア軍がィーンで失策を演じたように、今回はフランス軍の元帥ミュラが軽率にもバグラチオンの軍勢をクトゥーゾフの全軍であると思い込み、不用意にも休戦の申し込みをしてしまう。この失策のおかげで、連日の行軍により疲弊しおまけに飢えていたバグラチオンの軍勢は、数日の猶予を得て戦う態勢を整えることができたのだった。

 

ミュラの過ちに気がついたのはナポレオンであった。「進軍せよ、ロシア軍を撃滅せよ……」とのナポレオンの命が前線のフランス軍に届く頃、アンドレイはバグラチオンの軍勢に加わることができたのだった。到着早々に彼は軍の布陣を見て周り、フランス軍が攻撃を加えてきた場合の、部隊それぞれの動きについて思考を巡らせることができた。

 

フランス軍の攻撃が始まった。砲撃が開始され大軍が攻め寄せてこようとしている最中、アンドレイは、自分がどのようにしてこの戦場においてナポレオンのような英雄になるのかと思う。

「始まった! いよいよ来た」「しかし、どこなんだ? どんなふうに現れるのだ、おれのトゥーロンは?」

 

一方、彼の上官であるバグラチオンの元に次々と前線からの知らせが届く。

「そうか、そうか」

バグラチオンは頷くばかりである。アンドレイは不思議に思うのだった。「驚いたことに、命令は何も与えられず、バグラチオン公爵はなにもかも、必然や、偶然や、個々の指揮官の意志で行われているのだし、なにもかも自分の命令によってではないが、自分の意図に沿って行われているのだ、という素振りをしようと努めているのを、見て取った」のだから。

 

通信技術が発達した現代ならばともかく、十九世の技術では、ひとりの人間が広範囲に展開した軍隊の動きを瞬時に把握し指示を出し、命令を受けた部隊がその指示通りに行動することは困難であったはずだ。

 

では、戦場における英雄とは何か。バグラチオン将軍の振る舞い(「素振り」)は、「英雄」に自分自身を重ねようとしていたアンドレイには奇異なものに思えたに違いない。

その十 ①405〜421

出勤前の時間に第一部第二篇11と12を読んだ。11節ではオーストリアのフランツ皇帝に謁見するアンドレイを、12節は謁見が終わったアンドレイと外交官ビリービンとのやりとりを描く。

 

迫り来るフランス軍を止めることもできず押し切られ続けるオーストリア軍。その様を表すかのように、フランツ皇帝は愚帝とまでは言わないまでも、危機に瀕する国家を救う度量がある君主ではなかった。アンドレイを前にしたフランツ皇帝は、なんと話していいかわからず、まごついた様子であり、会話の内容も仕方なく聞いているといったものに過ぎなかった。

 

謁見の前夜、ロシアの外交官ビリービンから、アンドレイが戦場から持ってきた知らせはオーストリアが歓迎するものではないだろうと聞かされていたのだったが、オーストリアの高官たちはアンドレイを取り囲み、お祝いの言葉を投げかけたり勲章を授けたり、全軍に報賞まで用意した。すっかり気分をよくしたアンドレイは、オーストリアの宮廷が自分を丁重に扱った様を父に伝える手紙を頭の中で下書きしながら、行軍中に読む本を探しに書店に立ち寄り、ビリービンが住む家まで戻ってきたのだった。

 

ビリービンの館に戻ったアンドレイは彼から、ウィーンにいたフランス軍が、ブリュンに向けて進軍していることを聞かされる。なんでも、オーストリアの将軍アウエルスベルクは、ナポレオン麾下のミュラ、ラン、ベリヤール元帥の甘言にすっかり騙されてしまい、爆破するはずの橋をそのまま敵に明け渡してしまったというのである。アンドレイの頭の中には、クトゥーゾフが率いる軍勢がフランス軍に撃破される様が描かれる。自分が尊敬するナポレオンが勝利する相手は、自分が副官を務める軍勢である。「悲しくもあり、同時に楽しくもあった」。また、ロシア軍が危機に陥っていることを、ロシア軍の中で知るのはアンドレイだけである。つまり、ロシア軍を救い出すことができるのは彼だけなのだ。もしも自分がロシアの全軍を絶望の淵から救ったならば、その功績は「無名の将校の群れから引き出して、栄光への最初の道を開いてくれる」にちがいない。

 

軍に戻ろうとするアンドレイに向かってビリービンは諭すように話しかける。

「なんのために行くんです? 僕にはわかっています。軍が危機に瀕している今、自分の義務は軍に駆けつけることだ、とあなたは考えているんでしょう。それはわかりますよ、あなた、それはヒロイズムというものです」。

自分の行為はヒロイズムではないと否定するアンドレイに向かってビリービンは続ける。

「しかし、あなたは哲学者ですからね、徹底的に哲学者になって、物事を別の面から見てごらんなさい。そうすればあなたは、自分の義務が、逆に、自分を大事にすることだ、ということを悟りますよ。そんなことは、それ以外なんの役にも立たないほかの連中に任せておきなさい……(以下略)」。

 

ここを発ってクトゥーゾフの元に向かったところで、軍に合流しないうちにフランスとの間に講和が結ばれるか、またはフランスと戦い敗走し辱めを受けるしか道はない、アンドレイにここに留まる決心を迫る。が、「軍を救うために行く」ことを決断するのだった。

その九 ①369〜404

午前中、第一部第二篇8〜10までを読んだ。8節では、初めて戦場を経験するニコライを、9節からは再びアンドレイが登場し、オーストリアの高官との折衝を描く。

 

橋を渡り終わったロシア軍であったが、ニコライが所属するデニーソフの率いる軽騎兵中隊だけが、敵に対峙して橋の向こう側に残っていた。敵との距離は五、六百メートルほど。最前線にいる兵士の心の内を作者は次のように描く。

「生きている者と死んだ者をへだてている一線を思わせるこの線を一歩越えたら——不可思議と、苦悩と、死だ。そして、その向こうには何があるんだ? 向こうにはだれがいるんだ? 向こうの、この野原や、木や、太陽に照らされている屋根のかなたには? だれも知らないし、知りたがっている。この一線を越えるのは恐ろしいし、越えてもみたい。そして、みんなわかってるんだ——遅かれ早かれ、この線を越えて、あちらに、線の向こう側に何があるかを知ることになる。それはちょうど、あちらに、死の向こう側に何があるかを知ることが避けられないのと同じだ、ということを。ところが、自分自身は強くて、健康で、陽気で、しかも、いら立っていて、そして、こんなに健康で、いらいらと活気にみちた人間たちに囲まれている」

 

次の瞬間に死んでしまうかもしれない、敵と向かい合う最前線に自分が身を置いていると、死の恐怖だけでなく、敵に向かって行こうとする高揚した気持ちとが入り混じった状態になるのだという。

 

ロシア軍はフランス軍の進軍を遅らせるために、自分達が渡河した後、橋を破壊する必要があった。連隊長は、デニーソフ率いる軽騎兵隊にその任務を与える。かつて、デニーソフの財布が盗まれた際に、連隊長に決闘を申し込んだニコライは、胸中密かに「あいつはおれを試そうとしているんだ!」と思うと、顔に血がのぼるほどだった。自分が臆病者でないことをぜひとも連隊長に示さなければならない。がニコライにそんな余裕はなかった。敵の砲弾に同僚が倒れているにも関わらず、「前の方へ行けば行くほどいいのだと思い込んで、もっと先へ走ろうとした」だけだった。

 

他の軽騎兵が橋に火をつけることができた頃、敵の散弾が飛び交う中ニコライは橋の上で棒立ちになっていた。敵を倒すことも、橋に火をつけることもできなかった。このとき、彼はある種の啓示を受けたかのように「まるで何かを探し求めるように、遠くを、ドナウの流れを、空を、太陽を見はじめた。空がなんとすばらしく見えたことか、なんと青く、静かに深く! 落ちていく太陽はなんと明るく、荘厳なことか! なんとやさしく、つやつやと、かなたのドナウの流れがきらめいていたことか!」と世界を認識する。「死と担架を恐れる気持も、太陽と生を愛する気持も、すべてがひとつの病的で不安な印象に溶け合った」瞬間、胸の中で「かなたの空のなかにいる神」に「私を救い、赦し、護りたまえ」とつぶやく。死に直面したからこそ、自分を取り巻く自然がいままで見たことがないほどに美しく見え、愛おしく思われた。神への祈りは、彼の全存在が生きていたいとはげしく求めた時に生まれた。

 

砲火の洗礼を初めて受けた見習士官のまわりに連隊長をはじめ、デニーソフたちが集まってくる。だが、誰もニコライを見ていなかった。みんな、彼の気持ちがわかっていたからである。

 

一方、「十万のフランス軍に追撃され」ている総司令官クトゥーゾフは東へ東へと軍を移動させていた。オーストリアの街の人たちからは「敵意をいだかれ」、敗走を重ねるオーストリアは信頼できず、食料をはじめとする補給も不足していた。

 

十月三十日になってやっと、フランス軍の一旅団を攻撃して粉砕することができた。勝利の報をオーストリアに報告するためにクトゥーゾフはアンドレイを急使として遣わす。吉報を携え、オーストリアの高官の元に急ぐ彼であったが、すでにウィーンがフランス軍に占領されたことを知らされるのだった。